サウナは「空白を獲得するため」にある。
僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。
村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」の一文だが、私は彼のようなクリエイティブ(すぎる)な仕事をしている訳では決してないが、サウナも自分に「空白の獲得」をもたらしてくれる効用があるのではないか、と思っている。
本格的ではないが、私も市民ランナーの端くれだ。大抵、走っているときは論理的思考力も分析的判断力も失い、呆然と漠然とした思いに支配されるか、何も考えないか、のいずれかで、少なくとも仕事でテンパった状況、悶々とした状況から解放される(問題はそんな時にマラソンする気になるか、であるが)。空白な状況はクリエイティブな仕事には必要だ。これには、大いに賛同する。
サウナの場合、熱い(サウナ)と冷たい(水風呂)と落ち着く(休憩)の繰り返しで、強制的に「空白」が生まれる。それが何かを生み出す余地を作り出す。メモリを振り切った状況を改善する。単にストレス解消以上のものがある。そんな感じがしてならない。
局面を変えたいとき、思考を一度リセットしたいとき、サウナは夜寝る前に行くものではなく、仕事の途中に行くもの、という発想は悪くない。ただ、サラリーマンの場合、「今から仕事のためにサウナに行ってきます」が認められる訳がない(笑)。ランチ休憩で1時間コースのサウナ(+昼はコンビニのおにぎりで済ます)。これはどうだ?